「『完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね』」

「だから?」

「書くことにした」

「その本を読んだから?」

「そういうことになる」

「単純だね」

「『書く度に自分が啓発されていくようなものでなくちゃ意味がない』」

「君は君のために書く」

「僕は僕のために書く」

「とにかく君は影響を受けたわけだ、その本に」

「それはまだわからない」

「そんなに引用してるのに?」

「さっき読んだばかりだから」

「ねえ見て」

犬が二匹、白と黒。犬種は知らない。

「黒い方、すっごく可愛くない??ちょこちょこちょこって」

「そうだね」

「速く行っちゃうもんだからさ、たまに後ろ振り返ったりなんてして」

白い方は大きく鈍重で草を臭うのに夢中だった。

「人間もああだったらいいのに」

?

「ねえ、何聞いてるの?」

僕はスマホの画面を見せた。

『君の瞳に恋してる』

彼女はさぞ不愉快そうに眉を顰めた。

「椎名林檎」

「なに?」

「僕はspotifyでさ 」

「そうなんだ、私はねapple music!!」

「課金はしてない」

「だから?」

「曲は選べない。」

「え、見して」

彼女は僕のスマホを手に取り、操作した。

「うっわほんとだ、シャッフル再生しか選べないじゃん、うけるwww」

彼女はスマホのblootooth をoffにして僕にそのスマホを返した。

「アイラービューベーイベー」

彼女は歌い出した。手を後ろに組み、歩調に合わせて体を大きく左右に振りながら、

「テラタルトゥットゥ」

And if it’s quite all right

「アイラービューベイーベー」

I need you baby

「トゥラーラロンリーナーイ」

to warm a lonely naight

「一番好きな曲って何?」

彼女は急に歌うのをやめたことがおかしかったのか、にひひ、と無邪気にこちらを向いた。腰を30°程度曲げたまま。

「さあ」

「じゃあ、一番好きなアルバムは?」

「『日出処』」

彼女は自分のスマホで調べはじめた。あ、こんな漢字で書くんだ、と呟いて。

「うそ、私もこの金髪のやつ好きだったのよ」

彼女はこれでもかというくらい目を細めて楽しそうに体を揺らしていた。

「パーパッ、パーパッ、パーパパッパッパ、パーパ、パーパ、パー」

「ん」

「いらない」

「そ」

「」

「それで?」

「それで、」

「何が書きたいの」

「わからない」

「」

「強いて言うなら、記録かな、僕の」

「つまんない」

「『二十歳くらいで何か意味のあるものを書ける人って、よほど頭のいい人か、よほど文学的資質に恵まれた人か、あるいはよほど運のいい人か、そのどれかしかありません。』」

「また引用?」

「twitterだけどね」

「  あんたさ」

「うん」

「自分を卑下したって仕方ないよ」

「」

「とりあえずさ、」

「ただ、」

「書きたくないものはある」

「なに」

「雄弁な思想、陰鬱な心理、してもいない経験」

$◇a

画面で点滅するカーソルを眺める。

カーソルは点滅している。

点滅したカーソルがそこにはある。

目前の棚から本を手に取る。

頁を繰る音だけが響く。

「作家は・・・”自分がやっていること、書いているものが一番正しい。他の作家は多かれ少なかれみんな間違っている”という考えに従って日々の生活を送っている」

Google Chrome

<点滅カーソル 名前>

<点滅するカーソルは「キャレット」と呼ばれます。キャレットは文字間で識別しやすい縦棒の形状をしており、たいていの場合は点滅で表示されています>

残念ながら僕は、古今東西多くの作家、マルセル・プルーストもジェームズ・ジェイスもデレク・ハートフィールドもヘミングウェイもフィッツジェラルドも、フョードル・ドストエフスキーすら読んだことが無い。きっと多くの文学少年が抱く憧憬とは無縁の生活を送ってきたし、記憶をそのままに生まれ変わっても名門校の文学部に通うことを志すことはまず間違いなく無いだろう。今生の今この瞬間ですら「てにをは」もままならない文字の羅列を生み出す自分に少々怯えている。

一定数の女性がある年齢から、歩けばまとわりつくホコリのあしらい方と、その性質そのものにこびりつく嫌な力場への対処に多くの関心を払わなければならなくなるように、優れた感性と良質な言葉を所有している人格への回禄は傍目に見ても良いものではない。するとむしろ必要に迫られて本を手に取るまで多様な価値観と美的創作の深淵に触れず、自分の内的空間の開拓に務めることができたのは良かったことなのかもしれない。しかし往々にして、僕らの被る機会損失があちらから知らせてくれたことがあるろうか。

「君はあのとき、『海辺のカフカ』を読んでいれば、『血の轍』を踏まず、ピザマンを食べられていたのかもね」

ピザマン…?

僕は黒いワークベンチの上で点滅するキャレットを眺め始めた。

河川敷。昼の二時。木漏れ日。

「何からしたらい?」

「何ができるの」

「」

4カポ。CM7,B7,Em,Am7。ローコード。

異性への無用な期待に目を眩ませた男がそのやり場の無い虚しさにかまけて”君”に向けた思いを吐き出す歌。その決して直接的とは言えない言い回しは確かに他の”君”を歌う曲にはない特異的な香りをはらんでいる。恥ずかしげもなく僕はこの歌を大声で歌っていた時期もあった。

「そのコードなら」

D#M7.(5弦6フレット,4-5,3-7,2-6)D7.(5弦5フレット,4-4,3-5,2-6)Gm7.(6弦3フレット,4-3,3-3,2-3)A#7(6弦6フレット,4-6,3-7,2-6)

春に散る桜の花弁、花冷えの春の雨にあの頃の”君”を思い出し記憶を想起させ、霞んでいく愛しげな記憶を、秀逸な色彩描写、詞の

「ちょっと待って」

「♪~/…?どうしたの」

「そのコード何」

「Just the to of us」

「ん?」

「丸さ進行」

「どういう意味」

「さっき弾いてたじゃん、これ」

CM7,B7,Em,Am7。ローコード。

「うん」

「それをカポを使わずにさ、」

「いや、え、メジャーセブンスってこうじゃないの」

セーハ。5弦ルート。4-8,3-7,2-8。

「それもメジャーセブンスなんだけど、コードってただの音の構成の話だからいくらでも作り変えられる」

「めげそう」

「僕も覚えてるのはそれと、これくらいだよ、後はローコード」

彼女は初めて見るハイコードのメジャーセブンス、巷でよく言うジミヘンコードの7度を半音上げた形を必死に真似している。後は小指だけ。筋が良い。ひくひくと動く小指とともに、んお~と唸りながらやっとのこと、アルペジオでそれを弾いて見せる。

「♪~/…これ、すごく、いいね、ぜんぜん違う」

「でも同じコード」

「私これ好きだわ」

次に半音下がったジミヘンコードを弾いて見せる。

今回はひと目、一回で弾いてみせた。Gm7、A#7これは知っていたようで、コードチェンジも上手くいっている。

「この3つはなんかみたことあるよ」

「対応する、メジャーセブンスとか、セブンスとか、マイナーセブンスとかは全部これで代替できるよ」

「ほほほ~ん、なるほどね」

さっそく、拍を刻んで弾いている。やはり、初めてのM7のコードチェンジで少しつまずくが、あと少し練習すればものになるだろう。

「なるほどね、わかった。さっきのさ、もう一回聞かせてくれない?」

彼女はギターをベンチに置いてそう訪ねた。

春に散る桜の花弁、花冷えの春の雨にあの頃の”君”を想起し、霞んでいく愛しげな記憶を、秀逸な色彩描写、詞の対比によって表現した妙実な曲。

「いい曲だね」

ああ、わかる。

「もう一曲いいかな」

「うんっ」

キーを全音下げる。

色の拔けた生活に苛立ちながら、頭上で降る惨めなみぞれに”君”のいたあの頃、”君”の上に降った儚くしんしんとつもる雪を思い出す。いつもは”愛だ恋だ腑抜けた””巷にあふれるラヴソング”を皮肉にやじる彼が珍しく歌った二曲の失恋歌は、そのモチーフとなる季節、歌詞の構成による綺麗な対比によって双極を成し、まるで一本の糸を通したかのように同一のメジャーなコード進行を有している。

「もしかしてさ」

「うん」

「それが一番好きな曲?」

「さあ」

「あのね」

一通り、お互いの弾ける曲を交換し合って、僕らは喉の疲れもほどほどに、夕焼けが照らす緑の芝を眺めながらお互いに持っていたギターを傍らにおいた。

ガコーン。

おっと。

「私さ、ちょっと変な趣味があって」

「聞かないでおくよ」

「趣味と呼べるほどたいしたことないんだけど」

「聞いてよっ、ちょっとくらい」

痛。

Ⱥ

原理的に当然なことなのかもしれないが、男と女の登場する物語というのは必ず出会いについて忠実に描かれる。伊坂幸太郎の『砂漠』の鳩麦との出会いは西島の服を選びに行ったその店先で、『少年のアビス』ではコンビニの休憩時間、煙草を吸う鮮烈な思い出。『ノルウェイの森』なら坊主の緑、カフェでパスタか何かを食べながら。『風の歌を聴け』では酒場の水場だったかな。

Boy meets Girl 出会いこそ

人生の宝探しだね

しかし残念ながら、僕は彼女との出会いについて事細か鮮明に描き出すつもりはない。

特に意味はない。

特に意味もなく、文字を走らせている。

特に意味もなく、たまにちょっとしたこだわりと享楽をその波に乗せる。

どうして意味を必要とする

ねえ、そこの貴方。そうそうそこの君。

ちょっと贅沢すぎるよ。たぶんね。

まあ、なに、冗談だよ。ごめんなさい。

僕は彼女となんてことはない曲についての会話を交わし、なんてことはない河川敷でなんてことはない曲を歌い、彼女は、奇妙な趣味というか癖をやけに恥ずかがりながら僕に話した。

これでいいかな、君たちが欲しいものは。

僕は、ただ一つのURLを共有され、それをたまに見てみてほしいと頼まれた。「よければ」と添えて。

「こんにちは。書き出しは何にしようか迷ったのですが、平素に挨拶から失礼します。

昨今はSNSによる情報の交換、意思の疎通があたりまえになりましたね。新しい道具に対する抵抗のない私達若年層が見せる順応に私は驚かされてばかりです。まあそれも、ただ若いからという意味ではなく、構築させたシステムを持っていないが故に新しいシステムの構築に対するコストが限りなく低いというだけなのかもしれません。それが単に若いことと相関しているだけ。固定電話の線を抜くのは勇気がいるでしょ、かなり。

思い出は”ストーリー”に、またあとでキャプションと編集ができるから懐かしみたければそこを見返せばいい。コミュニティの帰属から解き放たれてもストーリーを日々更新し、更新されたストーリーを確認していれば大丈夫、私達はつながっている、いつでも会える。

”関西に住んでる方今日の夜空いてる人いません?”

キャリアを積んで、資格を取って、ある程度長文の読める技量のある人間たち(これがなかなかすくないのかもしれないですね)はその手のWebサービスを始めて不特定多数の人間とつながればいい。私はまだ行ける、前へ、上へ。誰とでも繋がれる、いくらでも。

”〇〇な私が▢▢で△△できた方法”

そんな昨今ですがローカルに閉じた電脳空間の中でかわされる比較的開けた(つまり制限の少ない)コミュニケーションというのはかなり珍しいのではないかと思って、前々からこういう方法、(つまり今みたいな方法ですが)での情報のやり取りに興味があったんです。

だって。

だって、私は別に自分を着飾ってよく見せたいとも思わないし、右手に生ビールを左手にはスマホを持ってなにかの宗教のようにRECを押したいわけじゃない。別に生産性なんて上げなくていい、収入も、今ので十分。そりゃやりたいこともある、目標もあるよ。でも、他の人はどうかわからないけど私は普通の人間だもの。

私はやりたいことをやりたいだけやりたいときにやって死ぬ、そりゃやりたいことを見つけるためにネットに潜るけど、”文化資本格差”、うるさいのよ、私がふらっと立ち寄った本屋で1000円くらいする御香を買ってもったいないからたまに落ち込んだとき以外部屋に飾ってるみたいなことでなんでちょっと惨めな思いしないといけないのよ。悪かったわね、高くておしゃれな、なんかよくわかなんない香水とかじゃなくて!

話は変わりますが、先日お会いしたときはありがとうございました。すごく楽しかったです。お互いに歌は余り上手じゃなかったけど。あの曲の名前….」

-_-

「いらっしゃーい、久しぶりだね」

そうやって、優しく、別に何かを諭すわけでもなくただ優しく笑いかける店主に適当に挨拶をして、カウンターに腰掛ける。

「こんにちは」

「こんにちはー!」

にひひ

「すっごい、なんていうか、風情あるお店ですね!」

左右に首を振って店内を眺めなながら、彼女はそういった。今日は他に客が居ない。

「汚い店だけどね、そう言ってくれると嬉しい」

ここに来るのは三度目になる。久しぶりに合う同郷の友人と「飲もう」といったはいいが、若い男女が二人でカジュアルに通えるような流行りの店に予約をし損ねた挙げ句、満員御礼長蛇の列だったためにそいつのおぼろげな記憶を頼りにふらりと入ったのが一度目で、とくになにがあったわけでもないがエンゲル係数0の身の上、金が余った月に魔が差して、独りで入ったのが二度目。パチンコ帰りで自分の子供を”三匹引き連れて”育てたと豪語するばあさんに絡まれたあの日は、店主の「あの子の心に触れるものがないといいけど」という孫を見るような目が痛くて「ハランバンジョウじゃないですか!」と柄にもなく叫んだのを覚えている。実際、店主と、それにあのばあさんの孫と僕は同じ歳なんだそうで

「とりあえず、適当によそっとくわね」

一度目のとき、「うちはね、だしを絶っ対一日で変えるの。牛すじなんて入れちゃうと全部だめになっちゃうから別にしてるのよ。」と語っていたそこのおでんがはたして一般的に格段美味しいものなのか、正直未だにわからない。単に、わからない。

「なにか飲む?」

「僕は生ビールで」

「同じので!」

先に出してくれたおでんをつまんでいると、店主は小松菜に挟んだおにぎりを皿に盛ってくれる。三回目になるが必ず。ありがとうございます!いいのよ、ホント田舎料理みたいなものしかなくてごめんね、いやいやいやいや!パクッおいしいです!グッ、ニコッ。その後店主は2人分のジョッキを持ってきて、僕らは静かに乾杯する。

響く調理器具の音、

たまにかわされる他愛もない会話、

提供される追加の料理と多様な酒、

「お酒は、飲めるの」

「まあね、私強いみたい」

「そう」

「母方も父方も弱いのにね、それに赤ん坊の頃、肝臓に異常値が出たんだって」

「」

「だから、たまにしか飲まない。そんなに気持ちよくもないんだよね、酔わないから。体は火照るし心拍数は上がるけど、ただそれだけ、気分が悪くなることもない」

「なんでだろうね」

「体が火照るか心拍数が上がらないとできないことなんて無いんだと思う、私には。」

「」

「たぶんそれに、理性が厚いのかもしれない、単純に。周りを見ていてふと思うんだよね、酔ってグデングデンになる人はただ、理性が剥がれてっただけでそうなるまでの時間はその人の理性の厚みに対応している」

”理性の厚み”

彼女はたまに、というかおそらく常に、少し厳かな言葉を通して世界を見ている。その事実と、いつものあの快活であほみたいに脳天気な彼女との差異は魚のエラにかかる釣り針のように僕の頭の中に小骨を刺す。

カウンターに肘をつき、左手にジョッキの取っ手、右手を添えて肩をすぼめながら大事そうにビールを飲んだ彼女の目はどことなく大人びていて澄んだ遠くの空を眺めるように黄昏ていた。彼女の剥がれた理性はどこか遠くの潮に流されてしまったようで

「僕はさ」

「うん」

こちらを向いて目を合わせたときの彼女に、いつものような笑みはない。

「万年筆を買ったんだよ」

「それがどうしたの」

吹き出しながら、少し笑った。

「ただ、それを使って毎日書く」

「何を」

「読んだ本の内容、研究の計画、まちまち、手が動くままに」

「けんきゅう」

彼女はその口の形のままジョッキを傾ける。

「5000円ポッチの安いのだけどね」

「文房具にしては高いね」

「だからいいと思ってる。折りに触れたら3万円くらいのものを新しく買おうかななんて」

「」

「つまり、僕は毎日、万年筆から出るディープシーのインクに自分を調律するための、なんていうか、”香り”を見出してる、」

そこまで言うと、彼女はジョッキを両手で掴む力を少し強めたように見えた。

「誰から言われたわけでもなく、誰かをなぞるわけでもなく、ただの105円のペンじゃなくて5000円の万年筆を使うことで」

「何がいいたいの?」

「」

酔っているのかもしれない。僕は彼女と違って、別に酒に強いわけでは無い。ただ、とにかく、彼女が彼女の剥がされるべき理性を備えたままのあの文章で伝えたかった事がなんなのかずっと考えている。あれを読んでからずっと。”剥がされるべき理性”、なるほど。あのときの小骨。

「私はどう見えてる」

昔、標準状態の男は嫉妬と性欲と競争心でできているという僕に、じゃあ女は極度の利己心だねと答えた女の子が居たけど、彼女は随分と突飛な質問を飛ばしてきた。

「僕には、とても歪に見える。僕は大小白黒の犬に人間の目指すべき指針を見いだせない、むしろあれは無意味なふざけた発言に聞こえる。でも、インスタでノスタルジーを生成し続ける人間たちへの洞察も、青天井の空に向かって走っていくことが余剰人生の答えだと思っている人間への疑問も、あのコミュニケーションの方法も、酒に対する認識も、とても同年代の、しかも君みたいなとてもなんというか可愛らしい女性の持つ考えだとは思えない。」

「…ノスタルジーを生成し続ける人間たち…?」

「僕がいいたいのは」

「私はさ、自殺するような人間は馬鹿だと思ってるの」

彼女は笑いながら一度カウンターに顔を向けた後、その笑顔をこちらに向け、そういった。

「」

「あ、ちょっとまって、でも、レイプされたら私も自殺したくなるかもしれないな。だから、もっと限定的に、身体性を伴っていない認識の重圧によって自らを死に追いやる人間たちは、絶対に間違っている、馬鹿だと思う」

「君は普段どんな本を読んでるの」

「最近は、『読書について』。ショーペンハウアー。あ、これあげる。」

そう言うと、彼女は一冊の本を手渡した。『生の短さについて』。セネカ。

「私達はさ、言葉によって物を考えて、それを人に伝えて、文化を形成して、愛を育んで、知性を高めて、生活を送る。それはウィトゲンシュタインがいうところだけど、それはわかるでしょ」

「言葉によって始まる…?」

「まあ、そんなとこ」

「でも私達の内部、心と言ってもいいけど、そこには、言葉より手前になにかがある、ラベリングされる前の商品、形になる前の混沌がそこには渦巻いてる、私にはそう感じられる」

「それはすごくわかる」

「私達はその混沌、ふわっとしたなにか、スープに見合う言葉を掬って自分を表現する。そして、私は私を感じられる。貴方が貴方になる。あ、これが私なんだなって」

「」

「そのスープはたぶんだけど、過去の些細な出来事、記憶によって作られていくんだと思う。でも、私達って生きていながらにして死を体感することなんてできないでしょ、死の記憶なんてあるわけないのよ。なのになんで、自分を死に追いやることが必然だとおもえるわけ?右手に傘を指してヒトラーの遺影を持って死ぬことがどんなイデオロギーをはらんでいるのかしらないけど、遺作を残して薬で死ぬのほどの悲しみがどれだけのものか知らないけど、それでも、言葉でラベリングされる前のそのもやっとしたものが、死であることなんてありえない」

「えっと」

「馬鹿なんじゃないかと思う、その死を着飾って格好をつけた自分とその悲しみやらイデオロギーやら、社会の自分に対する認識に対する怒りやらに酔って、酔って、陶酔して、初めてDSを買ってもらったときのあのワクワクした感じとか、IPadを買ってもらったときにLINEが使えるあの喜びとか、初恋のキスで舌下面が何故かやけに甘くて不思議に思ったあの淡い思い出とか全部忘れて、自分という人生を微分しきって、”ああ、今の自分はなんてかわいそうなんだろう”なんて、ばっかじゃないの?何様のつもり?」

彼女の頬に涙が傳う。DS,ワクワク、Ipad,喜び、初恋、淡い思い出。単調な単語の羅列に”彼女らしさ”を感じる。

「だから私は決めたの、何があっても、能天気でお気楽でバカな私でいようって、むしろその自分の内部の言葉の前にある混沌に存在するはずのない”死”を選択できる人間なら、どんだけどんぞこにあっても、バカでお気楽な言葉を、イデオロギーを行動を選択できると思わない?私は、そう思ってる。思いたい。そういう信仰のたもとにいる。そうやって生きていきたいの。」

あれ?どうしたんだろう。と言って彼女は、綺麗で真っ直ぐな人指の腹で頬を拭っている。

「あのね」

涙を拭う彼女にそう語りかけたのは店主だった。僕はただ、唖然としていた。

「私、夫の都合でこっちに引っ越してきて、暇だなって始めた店に、いろんな人がやってきて、ほらそこの国立病院のお医者様なんかも来るようになってね。22時に起こされたりするのよ、”まだやってるかい”なんて言って。それで決まって、7杯飲んでいかれるの、本人は多分数えてないんだけどきっちり7杯。そうやって、常連さんができて、お店もほとんど毎日開けるようになって、旅行なんかもゆっくりできなくなっちゃってね。私としては別にそれでも良かったんだけど、ある時ねお医者様のうちの一人がこの本を渡してくれたのよ。」

『悩むなら、旅に出よ』伊集院静。

「別に、説教しようってんじゃないのよ。ただのエッセイ集なんだけど、この人の言葉はね、無駄がないというか、エッセイなんてそれ自体無駄みたいなもんなんだけどさ」

店主はあははと笑った

「とりあえずすっきりしてるのね、決して派手でも、面白い流れがあるわけでもないんだけど、疲れてても忙しくてもすっと頭の中に入ってくる感じが好きなの。内容云々ってより。それで私、私の店がそういう店になればいいな、ってふとね、思ったのよ。私は難しいことはわかんないんだけどさ、そういう店になればいいなってそんな感じがしたの」

少しの沈黙が流れた。彼女は笑顔を作って深く息を吸って何かを言いかけたが、店主がそれを止めるかのように続けた。

「その本、読んでみてくれない?それで、私に会う本、小説でもいいし、貴方の好きな本を教えてほしいのよ、最近読みたい本もなくて困ってたから」

彼女は、黙って泣きながら、溢れ出る涙を気に掛けることなく、こくりとうなづいた。ごめんなさい。彼女は謝った。少なくとも僕にはそう聞き取れた。

店内にはすすり泣く音だけが響いていた。

店主は自分の来ていた上着を彼女に着せ、明日の支度のための材料取ってくるわね、と奥に行ってしまった。

僕は釣り上げられたアジのように何度も口をパクパクとさせ、言葉が喉元を通り過ぎようとするたびにそれが自分の言いたいことだとは思えなくなりまた押し黙る、そんな事を続けていた。

”語り得ぬものについては、沈黙せねばならない”

その言葉が脳内をかすめたとき、

「世界は成立している事柄の総体である」

そうつぶやいていた。

痛。

「要は現に僕はどこにもいかずにここにいて、言葉をかけていて、」

イタタタタタ。

「後付でしょ、バカ、」

A

さながら『DEATHNOTE』のLのように膝を曲げて椅子に座り、彼女からもらった本を指でつまみ上げる。店主は「二人で4000円でいいわよ」と言って僕らを見送ってくれた。おにぎりやら、豚キムチ、おでんの具、最後にはお茶漬けまでつけて、いつも店主はそれくらいの値段しか払わせてくれない。相場なんてわからないけど、頼んでもないのに来る食べ物たちを見ていると、その値段では申し訳なくなる。僕はまだ若い。財布を出そうとするあの子もいた手前、黙って1万円を置いて店を出た。店主は少し驚いた顔をした後、また入ってきたときと同じ顔で「またきてね」と扉を締めた。

僕は本を机において、万年筆のキャップを確かめるように開ける。ビジネスホテルにはなぜか聖書があることが慣習になっていると教えてくれたのはたしか父だっただろうか。彼女が言うには、自殺願望は身の丈に合わない”贅沢”であるらしい。ただあくまでも、”認識的な”違いによるタナトスを指している、ということは強調しておくべきかもしれない。彼女は『Woman』の作中で苦しむ満島ひかりのことを馬鹿にしたりはしないだろう。そんな生に不都合な欲動は精神を包含する身体を持つとはいえ我々生物の見せる”自然”な現象ではなく、ただ我々が選択するものであってそんなものが選択できるのであればより生に都合の良い選択もできるだろうと、僕らの精神なんてそんなものでしか無い。というのが彼女が最後に言っていたことなのかもしれない。

”だから私は決めたの、何があっても、能天気でお気楽でバカな私でいようって”

役所に行けばパスポートが作れる。成田までのチケットを買って、そこからアメリカだろうがカナダだろうがエチオピアだろうが明日にでも行くことができる。財布が気になるなら、ギターかピアノをもっと安くで買えば音楽の深淵に触れられ、パソコンかタブレットを買えば形而上学とは別に新たに広がる抽象空間の存在に気づける。僕が今、こうしてBill evans の『Danny Boy』を聴きながらパソコンで黒いキャレットを眺めているように。

「今からでも、コンビニに行けばピザマンだって買えるじゃないか。『血の轍』を踏んでようがね。」

パソコンを閉じ、彼女が渡してくれた本をおもむろにもう一度手に取る。本を少し曲げ、右手の親指で頁をなぞると指が引っかかったのがわかった。そのページを開くと、そこにしおりはなく、1000円札が三枚、綺麗に折り曲げて入っていた。よくカバンの中で落ちなかったな。左側のページにはこう書かれていた。

「それに反し、過去を忘れ、今をなおざりにし。未来を恐れる者たちの生涯は極めて短く、不安に満ちたものである。終焉が近づいたとき、彼らは、哀れにも自分がなすところなく、これほど長い間、何かに忙殺されてきたことを悟るが、時すでに遅しである。また、彼らが時に死を願う事があるという論拠を持って、彼らの過ごす生が長いという事実を証明できると考えてよい理由はない。彼らは思慮のなさから自分が恐れる当のものへと突き進んでいく不安定な情緒に苦しめられるのである。彼らが死を望むのは往々にして死を恐れているからに他ならない。」

彼女はいつからこれを渡すことを計画し、どうしてまた、3000円もいれていたんだ?またノートパソコンを開き、彼女から渡されたURLをブラウザで踏んだ。僕らはURLが渡されたあの日から、毎日とは言わないまでもお互いに、閉じているが拓けたコミュニケーションを続けていた。そこに既読マークはつかなくとも、コメントも(できるにせよ)せずに。ただお互いがそれぞれに。

明日、いや、日付が変わったから今日の欄にページが一つ追加されている。

「勘違いしてほしくないんだけど、私は「徳」だとか「最高善」だとか大味な単語に集約させるギリシャの哲学がそんなに好きってわけじゃないんだよね。ただ、今読んでる本が偶然これだからそれにお金を挟んで渡してるだけです。お金に関しては、マニキュアとか化粧品を買うからか何か知らないけど、男に勘定してもらうのが当たり前だと思っているのが気持ち悪いと思っていて、他人は否定しないけど、私はそうしたくない。でもやっぱり、多分できた男ほど払ってくれようとすると思うのよ。その面子は潰したくないじゃん。それで考えたんだけど、払ってくれる前に隠れてお金を渡しておいて、その場では払ってもらって、事後的に”別に男の子のそういうとこ侮辱するつもりはないんだよ”って伝えるのが最善なんじゃないかって思ったんだよね。未来の、というかもう明日なんだけど、明日の私がどうやってセネカの『生の短さについて』を渡しているかしらないけど、この文章は明日会う直前にアップしとこうと思います。君はいつものようにこれを読んでくれているだろうから、私は明日の夜中の君に話してるかな。

貴方さえよければ、またいきましょう。

https://open.spotify.com/intl-ja/track/1mAKNMH2JibsaN6dkrKHKZ?si=cbd340b9b19643a6

To That Ocean Of Tree.

今度は割り勘で。」

a

「この題名はなんなの」

そう言うとベットの横に設置された窓のふちに両肘を起き、窓の外を逆さに眺めるようにだらしなく寝そべりながら吸いかけの煙草をその口に近づける。切っ先の煙も副流煙も出たそばから窓に吸い込まれていく。キャミソールの上で描かれる夕日とその影の曲線からはついこの間まで抱いていたであろう感情の励起を感じることはなく、ただ写実を欲する美的欲求だけを僕の中に残す。そのことが僕に時間の経過と失うべきでなかったなにかの不可逆な喪失を知らせる。左手にはWinstonの赤い箱が握られている。

「科学も工学も、文学も、あるいは関係性における常識も先人たちの残した技工の上に成り立っている。僕はそのどれも斜に構えて見ている、たぶんそのことを言いたかったのだと思う」

「たぶん?」

「”ジャズも進行があってソロがある。そのとき進行はムードでしか無い。”と聞いたことがある。」

「あんたは捻くれた和音の上に自分についての記録を残した。」

「いえす」

「そのしんこうに従うなら」

「うん」

「たぶんこれだよ」

「何が」

僕が最後の台詞の全ての音節を言い終える前に、右手に持たれたA4のコピー用紙は妖艶な笑みの隣で十数羽の鷲のように力強く風に応えながら、窓の外に吸い込まれていった。

「あんたがこれからすべきこと」